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若い女と灰皿

  • 執筆者の写真: 栃原比比奈
    栃原比比奈
  • 9 時間前
  • 読了時間: 2分

騒々しい笑い声を背に、口紅はため息をついた。この場末にあるスナックで自分がママになったことよりも、あの男が玉の輿の乗ったことが未だに許せないのだ。隣では猫背の瘦せこけたホステスが薬で溶けた歯をむき出しに笑顔を作っていた。新入りの若い女は慣れない手つきで水割りを作る。その情景を見ながら、口紅は唇を舐めた。そうすることが面白くない時の口紅の癖だった。客のひとりがカラオケを歌いだした。隣ではつい最近店に入った自分の娘がデュエットの相手をしている。自分の方が娘よりも美人だった。口紅は左口角を上げながらそう思った。若い女はカラオケの誘いを断っている。赤紫のビロードで出来たソファーに座る新入り女のドレスは黄緑色だった。毎日17時からこうした時間を過ごすことに不満があるわけではないが、年老いていく自分の顔に出来た皺のありかを指で確認するたびに、自分自身が妖怪のような存在になっていることに薄々気づいているのだ。気づきながら、しかし口紅は背中の開いたドレスを纏い、平気な顔をする。ボトルが並ぶ棚には口紅の若かりし頃の写真が飾られている。許せないと思う。何もかもだ。あの男のことも、今までの男たちのことも。今の自分がここにいることも。するとドアがカランと開き、見知らぬ男が入ってきた。土色の顔をした男は店に入るなり煙草に火をつけた。若い女は見慣れない灰皿を男に渡した。男は礼も言わず、その灰皿に煙草を置く。煙は一本の白い糸のように上に上にと上がっていった。口紅は、その煙草の先に灯る淡い火色と灰皿の底面が触れるか触れないかの狭い隙間を凝視しながら、若い女に「ガラスの灰皿に変えなさい」と鋭く命じた。その灰皿が木製のように見えたからだ。若い女が慌てて灰皿を交換しようとすると男はすっと立ち上がり、突然、若い女の腕を力いっぱい引っ張ってそのまま店を飛び出した。一瞬の出来事で口紅は助けなかった。若い女はその日帰ってこなかった。そこに残された灰皿はよく見ると真ん中に細長い板切れがシーソーのようなオブジェとして無意味に蝶番で留められている。裏を向けると古ぼけた木で出来た長方形は誰かの写真立てだった。写真立ての中には知らない美しい女がこちらに向かってにこりと微笑んでいる。口紅はまた唇を舌でゆっくり舐めた。若い女の行方はそれ以来誰の口からも出なかった。

 
 

© 2025 Hiina Tochihara

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